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<No.16>会津若松旅行

  • ワールドカップに熱狂した日本人も、日本チームが早々に敗退したためすっかり熱が冷めて敗因分析と次期監督探しに焦点が移ったようだが、サッカーの最高の興奮を味わえるのはこれからの決勝リーグだと思う。それにしても西ヨーロッパと南米の強さは素晴らしい。今の日本やアジア、アフリカなどではとても足元にも及ばない。やはり上滑りの人気だけではだめで、歴史の差としかいいようがない。
  • 歴史と言えば、6月に友人3人と会津若松へ旅行した。一人は曽祖父が戊辰戦争で活躍した常盤盛敦の子孫、もう一人は房州大名の家臣で蛤御門の戦いで長州を追い出した幕府軍戦士の5代目、そして私はもとより長州商人の末裔だから、130年前なら敵同士ではある。
  • わたしが現役の時に、こうした話題でたまに取引を嫌がる人がいたが、歴史を紐解けば、関が原の合戦の後、負け組の旗頭だった長州は徳川に厳しい処罰を受け、その恨みは筆舌に尽くしがたいものがあったと思う。したがって幕末に京都守護職の職務を引受け忠実にまっとうした松平容保の会津藩は、長州側から見れば許しがたい江戸幕府の一の子分と言うことになろうか。だから外国の侵略を防ぐために江戸城開場、徳川慶喜謹慎などで双方は手打をしたものの、多少の血を見なければ治まらないのが内戦の常識であれば、戊辰戦争と言う形で奥羽列藩同盟の首班である会津を徹底的に粉砕し、感情的とも思える戦後処理を行ったのも長州側からすればうなずけるものがある。逆の立場からすれば、この仕打ちは子々孫々まで忘れがたい恨みであろう。
  • 旅行の準備段階から、そうしたおさらいをかなりして、長州の末裔としてはどきどきしながら足を踏み入れたわけだが、飯盛山の白虎隊などの墓、美しい鶴ヶ城、江戸時代の豪壮な武家屋敷など日本の中世封建制度の最高傑作とも思える数々の建造物と、武家社会のシステムの中で武家の一族郎党が見せた忠誠心、生き様を賛美する展示物が街中の随所に見られ、近隣や遠方の小中学生の修学旅行者が数多く来ていた。しかし幕末という時代では最高の生き方かも知れないが、現代の社会環境や民主教育の観点からすれば、いかがなものかと思われることも多々あるようだ。
  • それにしても会津市内の街並みが活気に満ちているのには驚いた。我が下関の凋落振りを目の当たりにするにつけ、歴史の流れの皮肉さを禁じえない。「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言われるが、「おごれるものは久しからず」という言葉がここでは一番相応しいようだ。母成峠の戊辰戦争の碑が東軍も西軍も一様に戦死者の霊を祀ることになった現在、会津の人たちもぼつぼつ怨念も和らげて欲しいものだとあらためて思った。